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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その5 名文の中の納豆−夏目漱石『門』

明治の文豪夏目漱石(1867-1916))については、いまさら解説するまでもないでしょう。漱石の作品の代表作の一つ『門』は、明治43年に「朝日新聞」に連載され、翌年1月に刊行されました。この作品は『三四郎』『それから』に続く、前期三部作最後の作品とされます。親友であった安井を裏切り、その妻であるお米(よね)と結婚した下級官吏の野中宗助が、その罪悪感から救いを求める姿を季節の移ろいとともに描いた作品です。

漱石は、この作品の執筆中に胃潰瘍を患い、修善寺で療養中に大量の吐血をして生死の境をさまよいます。『門』はそんな状況下で漱石が書いた小説だったです。そのためか恬淡とした味わい深い文章になっています。そこに納豆売りが登場し、冬の風情を巧みに表現する点描として機能している点に注目したいものです。

円明寺の杉が焦げたように赭黒(あかぐろ)くなった。天気の好い日には、風に洗われた空の端(は)ずれに、白い筋の嶮(けわ)しく見える山が出た。年は宗助(そうすけ)夫婦を駆(か)って日ごとに寒い方へ吹き寄せた。朝になると欠かさず通る納豆売(なっとううり)の声が、瓦を鎖(とざ)す霜の色を連想せしめた。宗助は床の中でその声を聞きながら、また冬が来たと思い出した。御米(およね)は台所で、今年も去年のように水道の栓(せん)が氷ってくれなければ助かるがと、暮から春へ掛けての取越苦労をした。夜になると夫婦とも炬燵(こたつ)にばかり親しんだ。そうして広島や福岡の暖かい冬を羨(うら)やんだ。

名文の中の納豆

宗助とお米が明治42年の晩秋から翌年の早春にかけての時間を過ごす中で、彼らの心情と季節感がとても巧みに重ね合わせられています。納豆売りの声が、「瓦を鎖す霜の色を連想せしめた」というようにやがて訪れるであろう冬の厳しさを聴覚から予感させる存在として織り込まれています。

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