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『郷土史資料における食文化としての納豆』
京都市右京区京北町における納豆餅−納豆餅

■筑波大学大学院 人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 准教授
石塚 修の研究
  • 納豆もち
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植田康嗣氏

納豆餅

現在販売されているものは、いわゆる豆餅と同じく餅に混ぜ込んだ形態のもの。

本来の作り方
“京都 京北の里”京北商工会事務局長 植田康嗣氏(写真)への取材では、板状の餅を焼き、焦げ目の側から、塩や砂糖(白、黒)と混ぜた納豆をのせて包みこむ。
年の暮に家長が家族の数だけ作り、三が日、あぶって温めて食べた。個々人で紙などに包んで名前を記してかじりついて食べていたそうである。

その由来については、野田裕子[修文大学健康栄養学部非常勤講師]によると、光厳法皇(1313−1364、在位1331−1333)は、丹波山の常照寺で修行を行っていました。そこで村人たちが新藁の苞(ほう)に煮豆を入れて献上したところ、それを日々食べているうちに糸を引くようになりました。法皇はそれを捨てずに塩をかけて食べてみたところ、大変美味しく食べることができたようです。これがこの地で「ねば豆」を作るようになった由来であるといわれ、やがて「鳳栖(ほうせい)納豆」と呼ばれるようになりました。この「鳳栖納豆」は、黒豆、小豆とともに毎年京都御所に献上するのがならわしとなり、その行事は江戸末期まで続いたといわれています。 (武庫川女子大生活環境学部食物栄養学科、『関西が造りあげた発酵食品』) ただし文中の常照寺とは、京都市右京区京北井戸字丸山にある臨済宗天龍寺派常照皇寺(正しくは大雄名山万寿常照皇禅寺)のことである。常照皇寺は、南北朝時代の北・貞治1年/南・正平17年(1362)に光厳(こうごん)法皇がこの地に草庵を結ばれたが2年後に没した。その後、その菩提を弔うために、開山を天皇として禅刹に改め常照万寿皇禅寺とされた。法皇の御陵は寺に隣接してある。

 常照皇寺には明治期の作と考えられる寺の縁起を描いた画帖が伝来しており、その1枚に納豆、しかも藁苞納豆の絵がえかがれている。先の野田氏の指摘では、「新藁の苞(ほう)に煮豆を入れて献上した」とあり、京北町では藁苞納豆の始祖は、京北町であると考えているようである。
 京北町は北山杉の産地として全国的に有名で、昔から林業を主として栄えてきた。特に1200年前の平安遷都の折、御所造営のための木材が切り出され、それを筏に組み桂川を下って京に運ばれて以来、皇室の禁裏御料地として林業が盛んになり、天皇の代がかわられる度に執行される大嘗祭には、平安時代から平成にいたるまでそれに使われる木材を供進しつづけてきたという歴史を持っていることから、京都との関係は深かった。

 そのため、おそらくは光厳法皇の隠栖もそうした縁を頼ってのことであったと考察できる。また、「鳳栖納豆」の木簡も常照皇寺には現存しているとのことで、皇室に藁苞入りの糸引き納豆が献上されていたことは、ほぼ間違いない。
 そうした権威との結びつきもあって、京北町の人々には「納豆」は特別の「ハレ」の食として意識され、それが正月の納豆餅と結びついていったといえる。また、京北町は幕末に結成され、官軍の先頭を歩いた「山国隊」発祥地でもある。山国神社の宮座の結びつきはきわめて強く、その宮座を中心に結成されたのが「山国隊」であったと考えられる。農兵でありながらも朝廷の尖兵としての役割を果たすには、それだけの自負と格式を重んじたためであろう。そうした宮座の人々が納豆餅の担い手であったことはたいへんに興味深い。すなわち、男性、しかも家長のみがこの納豆餅の作り手であったことは、納豆餅の持つ神聖さを表すからである。正月三が日は納豆餅で過ごし、台所の火を忌んだことは、主婦を安楽にさせると言うよりも、元来のおせち料理の意味と同様に、むしろ別火による清めであったと考えられる。  また、納豆餅の形態が、次の写真の

宮中の歯固めの儀式で長寿を願い餅の上に赤い菱餅を敷き、その上に猪肉や大根、鮎の塩漬け、瓜などをのせて食べていた菱葩が、しだいに簡略化され、餅の中に食品を包んだもの(宮中雑煮)を公家に配るようになった。さらには鮎はごぼうに、雑煮は餅と味噌餡でかたどったものとなった 菱葩餅とよく似ていることから、これらを真似して、餅に納豆を包み込んだ可能性が高い。大豆は節分に撒いて邪気を払うのにも使われることからもわかるとおり神聖な存在であった。その豆を時間をかけて稲藁で加工した納豆はまさに霊性の高い食品として認識されていたのではなかろうか。

・石塚 修 プロフィール
1986年筑波大学大学院教育 研究科修了
現在、筑波大学大学院 人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 准教授
研究テーマ「江戸時代の文芸にみられる食文化としての『納豆』」の研究により、全国納豆協同組合連合会研究部会主催の第2回納豆奨励金を受賞