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納豆発展の歴史

戦後の納豆を救ったハウ大佐

 あれから半世紀がたちました。
 昭和20年8月15日、長く苦しかった第二次世界大戦が、日本の敗戦によって終結したのです。
 ホッとしたのも束の間でした。 未曾有の食糧難が、待っていたのです。とにかく、食べ物がないのです。終戦の年の11月1日には、東京の日比谷公園で、餓死対策国民大会が開催されていますが、この頃、都市部を中心に、日本中で餓死者が続出していたのです。

 各地にヤミ市が出現し、都会人は家族の健康を守るために、物々交換と称して晴着や貴金属などを持って、食料を求めて買い出しに地方に出かけて行きました。そのような時代を背景に、悲しい事件がおこります。

佐伯 矩博士宅訪問

1959年
佐伯 矩博士宅訪問
中央・ハウ大佐 / 右・大磯敏夫氏
軍医部所属の稀に見る栄養学者突発交通事故にて左脚骨折し、入院加療後帰任した

 昭和22年、東京地裁の山口良忠判事は、「今こそ、判検事は、法の威信を守らなければならぬ」と宣言して、いっさいのヤミを拒否し、敢然と配給生活をつらぬき通して栄養失調となり、死去してしまったのです。

 当時、日本に進駐していたGHQ(連合軍司令部)の中に、日本人の栄養状態の悪さに心を痛めるアメリカ軍人がいました。栄養部長をしていたハウ大佐で、農林省のずさんな復興計画を見て、役人の発想に落胆し、日本人の食文化を研究した結果、納豆に注目しました。そして、納豆を研究する学者や業者などから、積極的に情報を集めたのです。

日本人に必要な栄養を、もっとも経済的に、効率よく手近に求めるには納豆が1番

その結果、ハウ大佐は「日本人に必要な栄養を、もっとも経済的に、効率よく手近に求めるには納豆が1番」という結論を出したのです。

 GHQの栄養部長のポストは、日本の食糧政策全権を握る要職であったが、昭和22年の8月、ハウ大佐自身が仙台まで出かけ、東北大学医学部の近藤正二教授に会って、「納豆」のことを詳細に調べています。

 GHQの後押しもあって、日本政府も食糧危機対策の一環として納豆を重視することになります。このようにして、納豆の戦後史はスタートを切ることになったのです。