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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その4 光源氏は「納豆」を食べなかったの?

古辞書で調べると「納豆」が単語として確認できますから、早くから納豆が日本の食文化に存在していたことは確認できました。では、実際はどのように食べられていたのかについても知りたくなるところです。それには食べている場面を描写している文学作品などがまずは見つかってほしところです。たとえば光源氏が朝食で納豆を食べていているシーンがあったりしたならば最適というわけです。残念ながら『源氏物語』のような王朝文学には食の風景はほとんど見られません。たとえば「末摘花」にみられる、

御粥(かゆ)・強飯(こはいひ)めして、まらうどにも参り給ひて、

という程度の描写なのです。日本人にはどうやら「食べる」姿そのものを卑しい姿と考える傾向があるためのようです。現在でもイメージを大切にするようなアイドルはテレビ番組などでも直接に「食べる」シーンはあまり見せないようにしているようですし、花柳界でも芸妓や舞妓さんたちは酒席では「食べる」姿は客に見せず、お馴染みさんになってやっとお客は「ご飯食べ」に行けるようになるそうです。

日本の古典文学作品で食べ物がどのように扱われているかは、一般の人たちからすると大いに興味と関心があるところだと思います。ところが古典文学の中心となる王朝文学・雅文学の世界では食べ物が取りあげられるということはほとんどありません。和歌の伝統では、歌語=雅語(例 鶴:つる→たづ・雁:がん→かりがね)を用いて花鳥風月の世界を詠むことを主流とします。和歌など雅文芸になぜ納豆が出てこないかというと、それは「納豆」が雅語ではなかったからなのです。ただ、それはけっして納豆が低級な食べ物だったということなのではなく、そもそも日本の伝統では食物そのものが文芸に登場することが稀だったと理解すべきでしょう。

食べ物が出てくる具体的な数少ない場面の一つに、

むかし紫式部、あるとき夫宣孝他出のとき、鰯をあぶり喰たるを、宣孝かへりみて、いやしきうをゝ食ひたまふと笑ひければ、
日のもとにはやらせ給ふいはし水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ
と詠み侍りしとぞ。
(天保11:1840 志賀理斎『三省録』・『日本随筆大成』第2期第16巻)

という話があります。現代語にすると、

紫式部が夫の留守に、鰯をあぶって食べていたのを夫が帰ってきて見とがめ、賤しい魚を食べなさることだと笑ったので、
この日の本にとても有名である石清水(いわしみず=いわし)八幡宮にお参りなさらない人はいらっしゃいますまいと思います
と歌を詠んだということです。

となります。
この話は室町末期に成立した御伽草子『猿源氏草紙』に、和泉式部とその夫であった藤原保昌(やすまさ)のこととして載っています。おそらくは伝承の間に紫式部に変化したのでしょう。

光源氏は「納豆」を食べなかったの?

平安時代に書かれた和歌を中心とした歌物語『大和物語』にも、ある男が浮気心を起こして別の女の家に通うようになったのを、本妻がとがめないのを疑った男が出かけたふりをして留守の間の妻の様子を隠れてのぞいたところ

夫の身を案じているのに心打たれて元の女のところに戻るという『伊勢物語』でも知られた話があります。『大和物語』では、その後に夫がたまたま尋ねて垣間見ると、

いとあやしき様なる衣をきて、大櫛を面櫛にさしかけてをりて、手づから飯盛りをりけり。いといみじとおもひて、来にけるまゝに、いかずなりにけり。

という別の女の姿を見てしまう続きがあります。
現代語訳すると、

とてもみすぼらしい着物を着て、大きな櫛を面櫛(額に櫛をさす)にして、自分でご飯を盛りつけて食べていた。たいそうひどいことだと思ってそのまま通わなくなった。

という意味になります。愛想つかしの一つの原因として、女性が給仕もつけずに自分でご飯をよそっている姿があげられるほどですから、王朝文学では登場人物が食べ物を実際に調理したり口にしたりしているシーンにはめったにめぐりあえないのです。

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