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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その12 川柳でも「納豆」は庶民の味方−『誹風柳多留』

川柳とは、5・7・5の形式をとる点では俳諧と変わりませんが、内容としては世態風俗を中心として時代に対する風刺を盛り込んだものが多く見られます。納豆の食文化が広く定着してくる時期と川柳の流行する時期とは奇しくもほぼ時期を同じくするため。川柳の始祖とされる柄井川柳(1718-1790)によって選ばれた川柳を弟子の呉陵軒可有(?-1788)がさらに精選して刊行した『誹風柳多留』(1765〜1791)全167編があります。

その中から、岡田甫『誹風柳多留全集・索引編』(1984 三省堂)を元に、納豆に関わる川柳を選び出すと以下のようになります(算数字は編と句番号)それぞれの句について解説を簡単に解説しましょう。

川柳でも「納豆」は庶民の味方−『誹風柳多留』

 納豆のあとからばつたばたとくる  7・40

朝の物売りの中で納豆屋さんが一番早いのです。

 納豆をたたきあきると春が来る  12・4

冬の風物詩納豆汁のために納豆を叩き飽きてくると春になります。

 ちいさな納豆百兵衛どのへ遣り  18・26

 百も小言で納豆でたづねてる  20・15

百兵衛とは下僕のことでしょう。

 納豆のかもにはたたきつける音  21・27

納豆叩く音を鴨だと見栄を張るのはよくあってようです。

 納豆のまずいを亭主いつかくい  23・30

夫の朝帰りでしょうか。

 納豆にちりにくはしき所化が付き  24・13

寺の歳暮配りは納豆でした。

 納豆を春までのばす泉岳寺  26・34

暮れに討ち入りがあったため納豆配りも春まで延期と言うことです。

 豆はまめだが下女のまめは納豆  26・39

豆は女性の陰部の異称です。

 しまったり親父納豆買って居る  39・39

朝帰りのどら息子の心境でしょう。

 納豆はさぞ寒そうなゑぼし也  42・17

入れ物の形から烏帽子納豆といわれました。

 裏店の鴨納豆と見下げられ  43・23

せっかくの鴨の肉も裏長屋だと納豆にされてしまいます。

 納豆売腹ぶと餅とは夜は化け  46・26

朝の納豆売りも夜には餅屋へと変身です。 

 納豆売からしを甘草程くわへ  49・23

サービスにからしたっぷりとはいかないようです。

 納豆をおびひろどけの人がよび  55・18

寝起き姿で納豆屋さんを呼び止める姿でしょう。

 糸を引く人魂納豆売りだろふ  62・29

人魂が後に長く引くのは生前が納豆売りだったというです。

 納豆の鴨と聞へるいいくらし  64・2

納豆を叩く音が鴨に聞こえるような暮らしぶりです。

 納豆で差引五十だんななり  67・31

少ないお布施でもお返しの納豆はきっちり受け取ります。

 居候納豆の茄子見た斗り  79・17

居候はいつも食事で苦労させられます。

 納豆と蜆に朝寝おこされる  80・19

納豆売りと蜆売りは朝の風物詩です。

 納豆の使僧取次畳さし  85・14

納豆を持参してのご機嫌伺いです。 

 初登城後は納豆もねかし物  90・35

 納豆で飯を喰てる烏帽子折り  99・113

烏帽子納豆の入れ物作りで食いつないでいるわけでもないでしょう。

 納豆売とふとふ寒くして仕廻  102・24

寒い季節の行商とはいえ寒さはこたえます。 

 

 納豆を唐から貰ふ小松殿  117・20

小松殿(平重盛)は遺言で大金を中国の阿育王山に寄進しました。

 和尚の酒盛納豆で跡を引  123・74

寺の晩酌は納豆がつまみだったようです。

 納豆を召すのも豆が糸を引  125・ 6

糸を引く陰の主役は豆だと言うことです。

 唐納豆も来そうなは小松殿  128・16

中国から納豆のお歳暮が届くというのです。

 納豆だ鴨だと隣論が干ず  129・26

隣の台所をあれこれと詮索しているようすです。

 納豆一桶小松様医王山  138・22

阿育王山からののしの上書きでしょうか。

 貧の鴨納豆汁とあなどられ  140・29

貧乏はしたくないものです。

 納豆の出世は上で糸を引き  142・31

誰かが糸を引いているわけです。

 納豆の笊底を買朝寝ぼう  163・ 5

寝坊な家では納豆は売れ残りになってしまいます。

 後家へ来る文納豆で見た手跡  165・ 2

毎朝買っている納豆屋さんと恋仲になってしまいました。

 納豆を叩いて呉れと好な下女  167・ 9

甘ったれるのは手練手管の常套です。

 納豆の度に尋る百旦那  123・ 6

いくらお布施が少なくても檀家は檀家です。

 納豆の不二刻菜の三保の景  124・18

三角の納豆を富士山に下の青菜を三保の松原に見立てています。

このように川柳を見てみると納豆は庶民の生活にしっかりと根付いていたことがわかります。たんなる食材としてではなく、食文化として生活の一部を担っていたわけです。ときには親子で、またときには夫婦で、ケンカもしつつ泣いたり笑ったりする楽しい食卓には、現代の家庭同様に納豆の姿が見られたことでしょう。

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