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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その12 下層社会からの脱出は納豆から−小林多喜二『蟹工船』

数年前に話題になった小説に小林多喜二(1902-1933)の『蟹工船』(昭和4年)があります。派遣切りが社会的な問題となって、ワーキング・プアと言われることばがはやり、フリーターで生計を立てざるを得ない若年層に支持を得て50万部も売り上げた小説です。

この作品が書かれた昭和の初めも「大学は出たけれど」ということばが流行し、まさに不況のまっただ中でした。そうした中、函館を出航してカムサッカへと向かう蟹工船博光丸は、まさに地獄のような労働環境でした。そこで労働者たちは団結して船内ストライキに入ります。やがて帝国軍艦が現れて味方してくれるものかと思っていると、逆にとらわれてしまい、より過酷な労働が待っているのでした。プロレタリア文学の旗手として多喜二は、貧困層に生きる人々の苦悩と社会の矛盾をこの小説を書くことで指摘したかったのです。

(船内での映画界の場面)
日本の方は、貧乏な一人の少年が「納豆売り」「夕刊売り」などから「靴磨き」をやり、工場に入り、模範職工になり、取り立てられて、一大富豪になる映画だった。―弁士は字幕(タイトル)にはなかったが、「げに勤勉こそ成功の母ならずして、何んぞや!」と云った。
それには雑夫達の「真剣な」拍手が起った。然し漁夫か船員のうちで、
嘘(うそ)こけ!そんだったら、俺なんて社長になってねかならないべよ」
と大声を出したものがいた。
それで皆は大笑いに笑ってしまった。
後で弁士が、「ああいう処へは、ウンと力を入れて、繰りかえし、繰りかえし云って貰いたいって、会社から命令されて来たんだ」と云った。
最後は、会社の、各所属工場や、事務所などを写したものだった。「勤勉」に働いている沢山の労働者が写っていた。
写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。

これは、蟹工船の中でおこなわれた数少ない娯楽であった映画会の場面です。無声映画のため弁士が解説をしています。もちろん会社に雇われている弁士は、「勤勉」である労働者の姿を強調する形での解説をさせられているというのです。多喜二はそうしたご都合主義の解説を弁士に責任があるのではなくて、会社という組織自体の利潤追求のために都合の良いものごと優先の姿勢を、弁士の「…会社から命令されて来たんだ」という暴露を通して描きだしています。

この場面からは、「納豆売り」や「夕刊売り」から立身出世していくというパターンが、その当時の日本社会で定着していたことがわかります。「勤勉」に働く日本人の代表格として、朝早くから起きて働く「納豆売り」が選ばれていたことは、朝食に納豆が欠かせない存在となっていたことの証明ともなるでしょう。

下層社会からの脱出は納豆から−小林多喜二『蟹工船』

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