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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その14 太宰流納豆の食べ方−太宰治「HUMANLOST」

太宰治(1909-1948)は、『人間失格』などで現在でも多くの読者から愛されている作家の一人です。彼は青森県の出身ですので、納豆とは親しみがあったようですが、「HUMANLOST」(昭和12年)などを読むと、どうも筋子と一緒に食べることが好きだったように見受けられます。この作品は、昭和11年10月13日からの闘病生活を書いた作品です。

二十三日。
「妻をののしる文。」
私が君を、どのように、いたわったか、君は識(し)っているか。どのように、いたわったか。どのように、賢明にかばってやったか。お金を欲しがったのは、誰であったか。私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった。人を悪しざまにののしったのは、誰であったか。閨(ねや)の審判を、どんなにきびしく排撃しても、しすぎることはない、と、とうとう私に確信させてしまったほどの功労者は、誰であったか。無智の洗濯女よ。妻は、職業でない。妻は、事務でない。ただ、すがれよ、頼れよ、わが腕の枕の細きが故か、猫の子一匹、いのち委ねては眠って呉れぬ。まことの愛の有様は、たとえば、みゆき、朝顔日記、めくらめっぽう雨の中、ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱の姿である。君ひとりの、ごていしゅだ。自信を以て、愛して下さい。

「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった」と書いているように、混ぜてはいないようですが、筋子と納豆を一緒に食べていたようです。このことは『姨捨』(昭和13年)という小説でもうかがえます。過ちを犯してしまった妻かず枝とそこまで追い詰めてしまった責任を感じた夫の嘉七が、死ぬことで二人の関係に決着をつけようと死に場所を求めて谷川温泉にやってきた宿でのようすです。

ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈(ちょうちん)かはだか蝋燭(ろうそく)もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。老夫婦ふたりきりで子供もなかったようだし、それでも三つの部屋がたまにふさがることもあって、そんなときには老夫婦てんてこまいで、かず枝も台所で手伝いやら邪魔やらしていたようであった。お膳にも、筋子だの納豆だのついていて、宿屋の料理ではなかった。

この部分を見ても、筋子と納豆に目がいってるのがわかります。また、女優高野幸代の心中事件と人生を描いた『火の鳥』(昭和14年)にも、

そのとしの十一月下旬、朝ふと眼を醒ますと、以前おなじ銀座のバアにつとめていた高野さちよが、しょんぼり枕もとに坐っていた。
「ほかに、ないもの。」さちよは、冷い両手で、寝ている数枝の顔をぴたとはさんだ。
数枝には、何もかもわかった。
「ばかなことばかりして。」そう言いながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかったようにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
さちよも、いそいそ襟巻をはずして、
「あたし買って来よう。数枝は、つくだ煮だったね。海老のつくだ煮買って来てあげる。」 出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねって、ごはんの鍋をのせ、ふたたび蒲団の中にもぐり込んだ。
そうして、その日から、さちよの寄棲(きせい)生活がはじまった。年の瀬、お正月、これといういいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まっくらい部屋で寝ながら話した。

とあるように、太宰は小説の道具立てとして意識して納豆を用いている気配があり、納豆にはひとしおの思いを持っていたと考えられます。ふるさとの津軽を捨てて、東京に暮らした太宰ですが、筋子や納豆といったささやかな食材からふるさとをしのんでいたのかも知れません。

太宰流納豆の食べ方−太宰治「HUMANLOST」

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