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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その15 江戸随筆にみる「納豆」

江戸時代に残された随筆は、『枕草子』や『徒然草』などどは異なり、多くは博物誌的な要素が強くみられます。筆者たちの中には「納豆」についても関心を持っていた人もいたようで、そこにはいくつかの描写を見ることができます。

『明和誌』(文政5・1822年序)
一 同年のころ(引用者注 明和5・1768年)、御ぞんじあまざけといふ見世、並木にあり。今所々醴見世の元祖なり。すべてあまざけ又納豆など、寒中ばかり商ふことなるに、近きころは、土用入と納豆を売きたる。あまざけは四季ともに商ふことゝなる。
(三田村鳶魚編『鼠璞十種 中巻』昭和53 中央公論社 pp.192-193)

『飛鳥川』(文化7・1810年刊〉柴村盛方)
昔に違いし上余りおかしきは、たゝき納豆は七月より出る。
(『日本随筆大成』2期10 平成6 吉川弘文館 p.16)

『嬉遊笑覧』巻10上(文政13・1830年刊)
ちゃのこ (座禅納豆)むかしは茶食にもせしものとみえて、「醒睡笑」に、見たところうまさうなれやこの茶の子名はから糸といふてくれなゐから糸とは納豆の異名なり、糸をひくをいふ。
「紅梅千句」に
薪の能の桟敷とりとり 可頼
納豆をさげ重箱に組入て 正章
柚べしには唯手を掛もせぬ  友仙

叩納豆 
〇たゝき納豆に汁の実まで添て売れるも近ごろのことならず「人倫訓蒙図彙」に、叩納豆薄ひらく四画に拵え、細かき菜豆腐を添うるなり、直やすく早わざの物九月末二月中売に出ると有れば、貞享の頃よりもさありしなり[割注]納豆江戸にも近ごろ迄寒き時節のものにて有しに、今は夏も売ありけり。但し粒納豆なり。此ごろは冬も叩納豆稀にて粒納豆を売れり。    
(『日本随筆大成 別巻』昭和52 吉川弘文館 pp.69-70)

『宝暦現来集』巻5(天保2・1831年序 山本桂翁〉
〇 納豆売 寛政頃迄は九月すへより十月に至り、売来ものなるが、今は土用の明くを待て納豆売来るなり、町に応ぜぬ故格別買人も有るまじ、何事もかくのごとく、暮使のごまめも秋より売出し、かずのこも年中売やうになり、何品に依らず、取越し商内の多成けり。
(『続日本随筆大成 別巻6』昭和57 吉川弘文館 pp.167-168)

『世のすがた』(安政末〜天保ごろ)
〇納豆は寛政の頃、冬至より売そめけるが、追々早くなりて七八九月頃より売はじむ、文政の頃は土用の明るを待て売初めしを、天保に至りては土用に入頃よりはや売来る、又文政の頃まではたゝき納豆とて三角に切、豆腐菜まで細に切て直に煮立るばかりに作り、薬味まで取揃へ、一人前八ツゝに売りしが、天保に至りてはたゝき納豆追々やみて粒納豆計を売来る
( 三田村鳶魚編『未刊随筆百種』第6巻 中央公論社 昭和52 p.38)

喜田川守貞『近世風俗志』巻6(嘉永6・1853年成立)
納豆売り 
大豆を煮て室に一夜してこれを売る。昔は冬のみ、近年夏もこれを売り巡る。汁に煮あるひは醤油をかけてこれを食す。京坂には自製するのみ。店売りもこれなきか。けだし寺納豆とは異なるなり。寺納豆は味噌の属なり。
納豆売り(再出) この売り巡るものは、浜名納豆および寺納豆と云ひて、毎冬三都とも寺より曲物に入れて旦家に贈る納豆とは別製なり。 
(宇佐美英機校訂 岩波文庫 1996 pp.296-298)

小山田与清『松屋筆記』巻51
(明治41・1908年刊 内容は文化末年(1818)から弘化2年(1845)ごろまでを筆記整理〉

金山寺味噌并納豆 ……納豆は吉田にて製するは生姜を加たる干納豆なり遠州浜松にて浜名納豆とて製るは山椒の辛皮を加たる干納豆也江戸にて汁に調じで食は糸引き納豆とてよくよく烹たる豆を窒中に納て粘て糸を引をいふ……

これらの随筆を読むとわかることがいくつかあります。

一つめは納豆が季節商品であった。ということです。もともとは9月の末から発売されていたものが、次第に時期が早まってきて土用あたりまでになり、やがて年中商品になっていったということです。実際に古い納豆業の方からのお話として、夏場は葦簀を作っていたり、氷室を経営していたという方もいたそうです。納豆は冬の季節の専売品から徐々に年中商品となっていった背景には、庶民のタンパク源としてそれだけ需要が伸びてきたからかもしれません。

江戸随筆にみる「納豆」

また、納豆汁としてすぐに食べられるように叩き納豆の形で薬味まで添えて販売する者が登場してくることも注目すべきです。納豆と言えば薬味にねぎとからしが付きものなのは、もしかすると、この即席納豆汁の薬味として添えられて販売されていた名残なのかもしれません。
『料理物語』(寛永12・1635年)にも

納豆汁 味噌をこくしてだしくはへよし。くきたうふいかにもこまかにきりてよし。小鳥をたゝき入吉。くきはよくあらひ出しさまに入。納豆はだしにてよくすりのべよし。すい口からし。柚。にんにく。
(江原恵『江戸料理史考』1986年 河出房新社)

とありますので、納豆とからしの縁はかなり古くから一般的だったことがうかがえます。

三つめは「関西には納豆を食べる習慣がない」という俗信は真実ではないということです。 『近世風俗志』にあるように京阪地域では、納豆は自家製であって販売されることが一般的でなかったために、食品として流通経路に乗らなかったことが「食べない」と誤解される原因の一つとなったのかもしれません。

江戸時代の随筆からもう一つわかることがあります。 『近世風俗志』(後集巻1)には、

平日の飯、京阪は午飯、俗に言ふひるめし、あるひは中食と言ひ、これを炊く。午飯に煮物あるひは魚類、または味噌汁等、二、三種を合せ食す。
江戸は朝に炊き、味噌汁を合せ、昼と夕べは冷飯を専らとす。けだし昼は一菜をそゆる。菜蔬あるひは魚肉等、必ず午食に供す。夕飯は茶漬に香の物を合す。

とあります。つまりたいていの家では一日に一度しかご飯は炊かなかったわけです。大家や大店では三度とも炊飯しておかずも付けたとのことですが、それは稀であったようです。
納豆が江戸の朝の風物詩になったのは、朝、ご飯を炊いて味噌汁を作るときに、その味噌汁の具として納豆汁が使われたからなのです。その点では蜆売りも同様だといえます。

ここからは憶測ですが、そうした納豆汁の具を、よほどせっかちな人がいて炊きたてのご飯にそのままかけて食べたところ、それはそれでなかなかおいしかったために、やがて納豆を熱々のご飯にかけて食べる習慣が生まれてきたと考えられないでしょうか。京阪でそうした朝食の習慣が生まれなかったのは、昼に炊いたご飯を朝食では茶漬けや茶がゆとして食べていたためかもしれません。

現在の朝ご飯の定番としての納豆が定着したのには、そうした江戸時代の食習慣も影響していると考えられないでしょうか。

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