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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その2 死期を迎えたなかで聞いた納豆売りの声−正岡子規「九月十四日の朝」

司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』のドラマ化で、一躍人気を博している近代短歌俳句の改革者としても名高い正岡子規(1867-1902)は、明治35年9月19日に7年にもおよぶ結核との闘病生活の果てに亡くなります。その子規が死期の迫っていた病床にあって、死ぬ5日前にあたる9月14日の早朝、納豆売りの声を耳にして、わざわざ買い求めさせていました。子規自身が「奨励のため」に買ってやりたくなると書いていますとおり、病床にあっても、おそらくは苦労して納豆を売り歩いている人たちにたいする、いたわりのまなざしを向けることを忘れていなかったための行為でしょう。この文章を読むと、そうした子規のやさしさと病身とは思えない筆致のすごさに気がつかされます。

……時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜は十本ほどのやつが皆瘠せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない。嗽いをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるのでこの小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来て居るのぞなというた。
(『ホトトギス』第五巻第十一号 明治35・9・20)

死期を迎えたなかで聞いた納豆売りの声

納豆は、もともと江戸時代には盆過ぎになって出てくる秋から冬の季節商品でした。俳句の名手であった子規はもしかするとそのことに気付いていて、こうして秋の朝の風物に納豆売りの声を取り合わせて、聞いていたのかも知れません。

澄んだ秋の朝の路地裏に響いた納豆売りの声が、子規の病床をなぐさめのは、食欲からではなく、そうした俳句心を呼びさますものであったからにちがいありません。

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