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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その3 病床で子規が納豆を買った理由−高浜虚子「子規居士と余」

先に取りあげたように、正岡子規(1867-1902)は、明治35年9月19日に亡くなりました。その臨終のようすを、弟子の一人であり、子規の俳句革新運動の志をついだ高浜虚子(1874-1959)が次のように書き残しています。

▼芳菲山人(ほうひさんじん)より来書。(十七日)
拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過(すぎ)ず頗(すこぶ)る不穏に御見舞申上候
達磨儀も盆頃より引籠り縄鉢巻にて筧の滝に荒行中(あらぎょうなか)御無音致候(ごぶいんいたしそうろう)。
俳病の夢みなるらんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか
即ち居士の日課の短文――『病牀六尺』――はこれで終末を告げている。そうして居士は越えて一日、九月十九日の午前一時頃に瞑目(めいもく)したのであった。実に居士は歿前二日までその稿を続けたのであった。
もっともそれらの文章は、代り合って枕頭に侍していた我らが居士の口授を筆記したものであった。前に陳べた余が居士の足を支えたというのはたしか十三日であったかと思う。
十三日の夜は余が泊り番であった。余は座敷に寝て、私(ひそ)かに病室の容子を窺っていたのであったが、存外やすらかに居士は眠った。居士の眼がさめたのはもう障子が白んでからであった。
まず居士は糞尿の始末を妹君にさせた。その時、「納豆々々」という売声が裏門に当る前田の邸中に聞こえた。居士は、
「あら納豆売が珍らしく来たよ。」と言った。それから、「あの納豆を買っておやりなさいや。」と母堂に言った。母堂は縁に立ってその納豆を買われた。
居士はこの朝は非常に気分がいいと言って、余に文章を筆記させた。「九月十四日の朝」と題する文章がそれで、それは当時の『ホトトギス』に載せ、『子規小品文集』中にも収めてある。
「子規居士と余」大正4年6月発行)

病床で子規が納豆を買った理由

正岡子規の闘病日記として知られる『病床六尺』には、彼の食生活が克明に記録され、その健啖ぶりを垣間見ることができます。周知の通り子規は四国松山の出身で、残念ながらそこに納豆は登場してきません。しかし、この随筆にしたがえば、亡くなる5日前の9月14日の早朝、自宅の路地まで入ってきた納豆売りの声を耳にし、母親に買わせているのです。子規が実際に口にしたかどうかはさだかではありませんが、少なくとも彼の意志によって納豆が買われたことはたしかです。また、早朝に奥まった子規宅の路地まで売りに来た納豆売りの声が、病床の子規の心になにがしかの思いをもたらしたことも事実でしょう。もちろん、秋の朝に来た納豆売りの声が俳味を喚起したのかもしれませんが、四国から東京に出てきて、夢半ばで病のために志を遂げられなかった自らの無念さが、早朝からけなげに納豆を売りに来た若者の姿とひょっとしたら重なり、子規に納豆を買わせたとは考えられないでしょうか。激痛にたえての闘病生活のなかで、子規は前途ある若者へのやさしいまなざしと励ましを忘れていなかった。虚子のこの随筆からはそう考えられるような気がしてなりません。 

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