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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その16 故郷への思い−宮本百合子『小祝の家』

宮本百合子が、納豆と故郷の父母の想い出と結びついていることは、先の「身辺打明けの記」からもわかります。その思いは小説にもつながっていたようで、『小祝の家』(昭和年)では息子たちが政治活動に明け暮れて貧しい生活を強いられている両親が納豆売りをしながら生活を支えている姿が出てきます。後の随筆と読み比べても彼女が故郷を思うとき納豆の想い出と深く関わっていることがわかります。

『小祝の家』


二月の夜、部屋に火の気というものがない。
乙女は肩当てが穢れた染(そめ)絣(かすり)の掻巻(かいまき)をはおり、灰のかたまった茶色の丸い瀬戸火鉢の上へヘラ台の畳んだのを渡したところへ腰かけ、テーブルへ顔を伏せて凝(じ)っとしている。
厳しい寒気は、星の燦(きらめ)く黒い郊外の空から、往来や畑の土を凍らし、トタン屋根をとおし、夜と一緒に髪の根にまでしみて来る。
テーブルの前に低く下った電燈のあたたかみが微(かすか)に顔に感じられた。電燈はすぐ近くに乙女の艶のない髪を照し、少しはなれて壁際に積まれたビールの空箱の中の沢山の仮綴(かりとじ)の書籍を照し出している。テーブルのニスが滑らかに光った。その光沢はいかにも寒げで、とても手を出す気がしない。……

暫くして、乙女が懐手(ふところて)をしたまま、顔だけ掻巻の袖の上から擡(もた)げ、
「……湯たんぽ、まだ冷えないかい?」
ゆっくりした、一言一言に力をこめたような口調で夫の勉に訊いた。
同じテーブルに向って正面のところには、家じゅうただ一脚の籐椅子にかけて、勉が、やっぱり掻巻をドテラがわりにシャツの上から着て頬杖をついている。勉は、北国生れの色白な顔に際立って大きい口元を動かし、口重げに、
「いや。……やろうか?」
と云った。
「いいえ、いい」
二人ながら小柄な体へ掻巻をかぶった夫婦はまた黙りこみかけたが、今度は乙女が、
「……祖父(じっ)ちゃん、本当にミツ子こと小包にして送ってよこすかしんないね」
長い眉毛をつり上げたような表情で云い、不安そうに荒れている自分の唇をなめた。
「ふむ……」
「祖父ちゃん……何すっかしんないよ」
「………」
テーブルの上に、塵紙のような紙に灰墨で乱暴に書いた貞之助の手紙があった。年よりならきッと書きそうな冒頭の文句も何もなしで、いきなり、度々手紙をやったがいつ金を送ってよこすつもりかと書き出し、東京で貴様はどんな偉い運動をやっているか知らんが、こっちでは一家五人が飢え死にしかけている。総領息子の貴様はどうしてくれる。金をよこさないのなら、手足まといのミツ子を小包にしてでも送りかえす。そのつもりでいれ! かすれたり、そうかと思うとにじんだり、貞之助の頑固に毛ばだった眉毛を思い出させる不揃いの文字で罵倒しているのであった。小祝勉殿と書いてある封筒の下のところに、ひどい種油の汚点がついて、それがなかみまで透っている。
故郷のA市で、貞之助はここ数年間、毎朝納豆の呼び売りをしていた。おふくろのまきは夜になると親父をはげまして自分から今川焼の屋台を特別風当りのきつい、しかし人通りの繁い川岸通りまで引き出して一時頃まで稼ぎ、小学を出た弟の勇は銀行の給仕に通った。それで、妹のアヤを合わせて一家が暮しているのであった。

宮本百合子は、どうも父親の想い出と納豆が重なっていたようです。それは次の随筆からもうかがうことができます。父の中條精一郎は、大正時代の著名な建築家で、東京帝国大学工科大学建築科を卒業後、文部省技市を経て札幌農学校土木工学科講師嘱託を務めたエリートでした。そんな父親が老年になって故郷山形県米沢の納豆をいとおしんでいる姿に、東京生まれの彼女は「故郷」(昭和12年)と人間の関わりを見つめていたようです。

「故郷の話」
朝夕、早春らしい寒さのゆるみが感じられるようになってきた。
日本の気候は四季のうつりかわりが、こまやかであるから、冬がすぎて寒いながらも素足のたたみざわりがさわやかに思われて来たりする、微妙な季節の感覚がある。
文学に季節がはっきり反映しているし、又作家が季節につながった思い出として故郷の春や、故郷の秋景色についてたずねられる場合も、なかなか少くない。
そういう時、私は自分に故郷と名づけるところがないということをよく感じる。私は東京で生れて、ずっと東京で育ったから、ここが故郷といえばいえよう。けれども、よそに出て暮しているのではないから、例えば、大阪で生れて育った人が現在では東京暮しをしているとか、反対に東京生れの人が大阪にいて、武蔵野の景色を故郷として思いうかべる心持とは大変にちがう。
外国生活の間には、誰しも自分の生れた国をさまざまの面から深くながめ、理解するものであるが、この場合には面白いことに、日本というものが総括的につかまれて、世界のただ中でそれが感じられるのであるから、その気持も、またいわゆる故郷をおもう気持といささか違った複雑な内容をもっている。
私の父は山形県の米沢に生れて、少年時代をそこで暮した。父の気質は明く活動的であったから、自分の仕事のあるところを生活の土地として、どちらかといえば故郷を忘れて生活した。それでも老年にはいってから、たべものが変るにつれ、いつとはなし米沢でたべたもの、例えば粒のこまかい納豆だの、納豆もちだのを好んで食べるようになった。
私は興味をもって、その移りかわりを見ていた。
故郷をもつ人が、病気などしたり、暮しが不如意になって来たりして、故郷に心をひかれ、空想の中で、ひとしおなつかしく思われる故郷に、やすみや生活のたつきをもとめてゆく人がこの頃のような世の中では数の多いことであろう。
そのようにして故郷にかえった人の何割が、果して現実の故郷で心に描いていたものをみいだし得ているであろうか。やはり故郷にかえってみても自分はここに生涯を終る人間でないという感じを深めている人が多い。経済的な点からもこのことはきている。
文学の創造の中で故郷は昔と違った実際の姿でかかれるときがきている。ましてや現在、それぞれの大都会で、或は山間の企業のある場所で生活とたたかっている人々の多くは、すでに故郷を捨てて祖先の墓のある土地から根をきられて、そこへ動いている。
故郷のない人々の文学が、故郷というものについての新しい文学的要素をかもしつつあるのだと思われる。

父親の好きだった小粒か、もしかするとひきわり納豆に、ふるさとを思っていた父親に反発しつつ、やがて自分もその年に近くなると、いつの間にかふるさとを思ってしまっているかもしれない姿を振り切るかのように、彼女は納豆嫌いを標榜していたのかも知れません。

故郷への思い−宮本百合子『小祝の家』

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