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納豆文学史「納豆と文学、ときどきこぼれ話」

その9 俳諧は「納豆」天国−『類船集』

和歌というと一般的には『百人一首』などでおなじみの5・7・5・7・7の31音からなる短歌を想像します。現在でも新年の「歌会始」という行事があるように、日本文化では、和歌は貴族文化の正統として継承されてきました。その和歌で滑稽をもととした「誹諧」と呼ばれたジャンルが発展し、次第に独立した文芸分野として15〜16世紀に独立していったものが俳諧です。もともとは連歌の形式を引き継ぎ、5・7・5と7・7を別の作者が詠み一つの世界を作り上げていった文芸で、連句とも呼ばれました。

江戸時代に入ると、主に富裕層の町人たちの間で大流行します。とくに元禄時代にかけては盛んになり、貞門派・談林派といわれる流派も生まれ、そこからは井原西鶴や松尾芭蕉といった人たちも出てきます。

王朝文学とは異なって、俳諧になると納豆は句のなかに盛んに読み込まれる存在になります。俳諧に詠まれる言葉を集めた書物の一つである『類船集』(延宝4・1676年刊 高瀬梅盛 京都大学大学院文学研究科所蔵)には納豆が次のように登場しています。

納豆(ナトウ) 汁 観音寺 浜名 寺の年玉
作善の斎非事一山の参会などの汁は無造作にしてよし。浄福寺の納豆はことによしとぞ。念仏講やおとりこし題目講はめんめんの思ひ思ひの信仰なり。

簡単に解説すると「納豆」という言葉が俳諧に詠まれる場合には、「汁」(納豆汁)・「観音寺」(滋賀県)・「浜名」(浜名納豆)・「寺の年玉」(寺院の年始のお礼)が次に連想されるというのです。続く解説は「法要の食事や寺での食事では汁は簡単に作られるのがよい。浄福寺の納豆はとくによいそうです。浄土宗の念仏講や浄土真宗の報恩講、日蓮宗の題目講などはそれぞれの思いにまかされた信仰です」と書かれてあります。

俳諧は「納豆」天国−『類船集』

寛永10(1633)年に出された『塵塚誹諧集』(徳元著)には

糸長く春はねのひの納豆かな

という句があります。「子の日」とは新年初めての子の日のことで、この日には根引きの松を祝うなど新年の祝いの行事があります。そのめでたい日の納豆の糸が、まるで長寿を祝うかのように殊の外長く延びるという意味の句です。納豆の「糸」を長命の「長さ」に<見立て>た縁起のよい句ですね。また、この句からこの頃には糸引き納豆が普及していたこともよくわかります。

寛文10(1670)年に出た『続境海草』には、

納豆
蒋苞(わらづと)の三府にねさせる納豆哉  堺   成行
寝し藁の苞夙(つと)に起きてや納豆汁    大坂 玖也
加減よし寝ての朝げの納豆汁             同

のように「納豆」が句題として見られます。

一句目は「こもづと」を三公(中国の宮廷の高官のこと)の役所である三府で寝させて熟成する納豆であるよという意味です。納豆の発酵のためにひょっとすると高官たち閨が使われているかもしれないという<取り合わせ>が楽しい句です。

二句目は「わらづと」の「つと」と朝早い意味の「つと」が駄洒落風にかけられています。納豆は藁苞の中で寝ているけれども、早朝(つと)に起きて納豆汁になってがんばっているねという意味としてよいでしょう。

三句目は寝起きの納豆汁がとてもいい加減でおいしいという意味の句です。寝起きといってもどうやら独り寝ではなさそうです。ともに夜を過ごした相方が夜明けに納豆汁をこしらえてくれ、そのうまさがたまらないというふうにすこしお色気を込めて読むと楽しい句になるかもしれません。江戸時代には、夜明けのコーヒーならぬ夜明けの納豆汁だったわけですね。

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