俳諧は語と語の連想<付合い>によって成立していく文芸です。ですから、その連想が俳諧師たちの脳裏には深く刻まれていたと考えられます。日本の俳諧を語るうえでは欠くことのできない松尾芭蕉(1644-1694)もれっきとした俳諧宗匠の一人ですから、頭の中にはおそらくそうした連想が展開していたと考えられます。
松尾芭蕉の俳句で具体的に納豆が出てくるのは、
納豆きる音しばしまて鉢叩(元禄3年・1690年)
の句です。
この句は「鉢叩」が季語になっています。「鉢叩き」とは師走(旧暦12月)になると街に出現する念仏僧のことで、手に持った鉢をたたいて物乞いをするのです。今ですとさしずめ歳末助け合い募金や救世軍の社会鍋といったイメージと重ね合わされると思います。
この句の意味は、夜も更けてきた師走の街を鉢叩きが鉢を叩いてまわっている。その音を耳にしてしばらくは納豆汁を作るためにまな板で納豆を叩いている手をやすめなさい、となるでしょうか。
寒い師走の夜、納豆汁で寝る前に温まって寝ようとしている作者にたいして寒風ふきすさぶ暮れの夜の街をあてどなく物乞いして歩く鉢叩きの姿とが対照的に描かれている句です。そして、そのうらさびしい念仏に納豆を叩く包丁の手を止めてふと耳を傾けてみなさいとする芭蕉の心情には、むしろとても温かいものを感じませんか。蕉風俳諧といわれる芭蕉の起こした新しい俳風は、このように納豆という日常の身近な食べ物を題材としつつも、この句のようにまるで一幅の水墨画を仕立てるような芸術性を求めたものでした。
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